高が語学の為に学校になんか通うな!

学校ね。突っ込み所が多過ぎてどこから書け­­ばいいか判んない(笑)。とにかく言えるのは長年の社会的洗脳の所為か、
「言葉を学ぶ」=「何かしらの学校(教室)に通う」
という思い込みがかなり深く浸透しているに違いない。

最近になって「学校に通わなくていい」という認識も高まりつつある気がするが、これも不十分だと思う。

なんなら教えてやろうかい?本当の事を。いい?

学校に通うからこそ、語学に挫折するのだ。

マジの話、天才ほど独学ができるんじゃなくて、寧ろ凡才だからこそ独学しなければならない、というのが僕の経験から来る持論。自己管理が出来ない(「意思が弱い」)から独学に失敗するのではなく、退屈な遣り方を無理矢理実践しようとするから、脳が然る可く叛乱を起こしてしまうのだ。

学校に通うからこそ、語学に挫折するのだ。
(そして名目上「独学」でも、学校のマゾな遣り方を再現している限り、同じく挫折するだろう)

無論、優しい先生さえ居れば、或る程度、学校の弊害を軽減する事ができるだろう。けれど、結局制度そのものが腐ってるから、根本治療にはならない。だって、幾ら砂糖を掛けても、ウンチはウンチじゃん。

別に教室から得られるものは何も無いという訳じゃない。ただそれは、刑務所に行っても、肉親に死なれても、癌になっても得られるものはあるのと同じ次元の話に過ぎない。何せ人間は学習する動物であり、基本的に何処に行こうと必ず何か新しい知識を拾うものだ。となると、「得られるモノは全く無い訳じゃない」といった程度の効果で学校をありがたる必要は皆無

まあ、唯一、学校・教室・刑務所などに感謝できるところと言えば、やはり「管理体制」という事なんだけどね。きちんと立てられたスケジュールやカリキュラムがあって、黙って従うだけで最低限の「実行」が保障される奴だ。しかし実はこれもまた大問題の原因。というのも、こういった「管理体制」が往々にして強引かつ抑圧的であり、人間本来の創造性・自発性を圧殺してしまうからだ。

そんな事を口にすると、単なる欧米の受け売りと言うか、安い「ゆとり理論」に聞こえるのは確かだ。だが、実は実際の会話など「具体的な言語使用場面」では、高い臨機応変力換言力柔軟性)が不可欠。

当然、(採点し易いが為に)学校に好まれる、硬くて杓子定規な遣り方では、真の臨機応変力が身に付く事は有り得ないと言っても過言ではない。結果として、何年通っても碌に言葉が使えない生徒が続出するのがオチだ。

これに対して学校側は、責任逃れすべく、自分たちが招いた悲惨な結果を(言葉の)構造だの(生徒の)年齢だのの所為にし、「日本語が難しい」やら「臨界期仮説」やら、矢鱈と神話の普及に努める

一昔前までは「情報過多」ならぬ「情報不足」な社会だったので、選択肢は学校か留学かしか無かったのだ。情報もノウハウも何もかも全部学校が握ってた訳。しかし、今では、圧倒的に個人が入手できる情報の方が、量も質も遥かに上だ。もはや学校という存在は要らない。学校と書いて邪魔と読む。

じゃあ、教師も要らないのか?というと、少なくとも従来の意味での、つまり「命令・支配型」の教師なら、んなの要らんわ。だけど、やっぱり、「非干渉型」の「案内役」なら、いつの時代でも大歓迎。あと、干渉はするが個人に密接に関わってくれる「代理の母」ってのも、有用と言えば有用。学校は要らないからと言って、経験豊富な人の知恵まで要らなくなったという訳では決して無い。

人間には「完璧」という事は無い。あるのはそれよりずっと面白いものだ。即ち「適応力」だ。人間のどんな知恵も、取捨選択試行錯誤など、自由が発揮できる環境があってはじめて伝播・開花するものだ。一見効率的な「命令・支配型」教育なのだが、遊び(実験、進化)が出来る環境作りこそ実は語学の近道

遊び=語学の近道

結局学校ってのは、一利あっても百害ある存在なのだ。そこに大事なお金を使うくらいならネイティブ向けの「本物コンテンツ」を買え。絶対にそっちの方が勉強になるから。

以上。

元ネタ:Classes Suck

Image: Arvind Balaraman / FreeDigitalPhotos.net

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